人物

中津吉則氏 中村市
中津岩雄氏 中村市天神橋通り「まけずや」商店主、大学で土壌地学を専攻、理科教師
森田喜久次(祥雲)氏  下ノ加江
井上研山氏 大阪
橋本正二氏
橋本耕雲氏 徳島市国府町早渕。井上氏の義弟
坂本賢造(一水)氏 中村市鴨川
坂本圭一氏
新谷健吉氏
大原勝氏
高橋玄石氏
土田康雄氏 土佐清水市

蒼龍石

経緯1: 高橋玄石氏-森田喜久次氏-井上研山氏

昭和28年、宿毛の書家高橋玄石氏が発見。昭和30年初めまで製作。
大阪から移り住んだ石工で土佐清水市の森田喜久次(祥雲)氏もその頃から昭和53年まで続けた(この年に他界)。
昭和33年、日本書道会が蒼龍石と命名し(森田氏はそれまで東京の書道家に硯を送るなどしていた)、森田氏が名称登録。
大阪の井上研山氏に原石を出荷しており、同市武藤氏(森田氏とは無関係)も同様の仕事を行っていた。
昭和36年頃には製硯家は一軒もなくなり(?)、原産地に作者がいない状況。この時、登録権利を持っていたのは橋本正二(井上研山氏の義弟耕雲氏と同一人物?)氏。橋本氏の作る硯が蒼龍石硯とされている。

経緯2: 中津岩雄氏

昭和28年、中津岩雄氏(52)が郷土史家山﨑進氏(文化財調査委員)より約500年前に県西部の幡多地方で硯石に関する文献を見つけたという話を聞く(大乗院寺社雑記、1470年)。幡多地方の山野を歩き回り数年後に三原村で原石を発見。
中津氏は「土佐硯」として自身で加工販売を行う。昭和39年頃には浜松の業者に原石を出荷。下ノ加江、三崎、中ノ浜、中村市名鹿、宿毛市黒川などで採石。この当時の採石は中津氏のみ。地元ではほとんど知られていないが、全国的には噂が広まっている。
坂本賢作氏(49)、宮本英雄氏(42)と共同の工場を構える。販売担当中津氏。土佐の物産展で注目を集めている。化石や水晶が残るものが珍重されている。田中塊堂氏(日展審査員)からの折り紙付き。(『新聞』)
販売責任者は中津岩雄氏、製作責任者は坂本賢造氏、月産50面、農閑期に3名で製作。(『和硯と和墨』)

蒼龍石の特徴

受墨が軟らか。(『和硯のすすめ 石川二男 1985年7月発行』)
緑色をわずかに含む青黒石。湿潤で受墨は絶佳、磨墨音はなく、墨が墨堂に吸い付く。熱釜塗蝋。稲妻紋、竹葉紋、墨花紋、年輪紋、半月紋、双龍紋など多様。(~産石地の研究 石川二男。)
細密湿潤、鋒鋩密立、青花、金暈、黄竜門、魚脳砕凍などの石紋あり。和硯中第一で端渓、歙州にも比肩すると書家から評価。(『中村硯一水工房資料』)
青黒く、凝結緊密にして細潤。歙州石に似ている。長時間放置しても墨汁が腐敗しない。金星、銀星が現れる石は極めて良質。美しい斑紋があり、時に眼も有する。特に注目すべきは青花を有すること。(『硯の知識と鑑賞(二玄社) 窪田一郎 昭和52年11月5日初版』)
昇龍紋。一般には無地のものが多い。『硯の話 東洋図書出版 昭和58年 大森丁斉』)
硯の六要八徳を備えている。(『洗硯趣味 昭和40年7月発行 蒼龍社 井上研山』)
逆光変化斑が見られる。水中では黄色斑が明瞭になる。黄色斑、褐色斑も。有無で磨墨には差がない。磨墨は端渓石よりはるかに上。森田氏作よりも坂本氏作のほうが良好。石質に相違がある。(『和硯石の展望』 岡田光穂(一二三) 昭和63年4月2日発行)

中村硯

経緯 : 坂本一水氏-

森田喜久次(祥雲)氏が作硯をしていたが、採石は中止され幻の石となったが初代一水氏が再び採掘に成功。
当時の採石権の所持者は坂本賢造氏が持ち、中津岩雄氏とともに作硯。
昭和40年頃硯職の親類を手伝い始めた。42年ごろに荒谷石を掘り当てた。蒼龍石の層から1メートル離れた新抗の石で作硯したのが坂本賢造氏(一水)。
「土佐硯」の商標で昭和販56年まで出合石、土佐端渓石と共に販売していたが、三原村が商標を得たことで中村硯として販売。(昭和54年以降は中村硯の商標を変更。それまでは土佐硯を商標としていた。???)
圭一氏は1978年頃に会社を退職し硯職へ。赤間で1年修業を積む。(『高知新聞 平成4年7月』)

中村硯の特徴

荒谷石。水気を含むと黄色や青の文様が浮かび上がる。(『高知新聞 平成4年7月』)
中村硯(土佐硯)。墨の下りがよく、粒子が細かく、粘り気が少なく、墨が腐らないという定評。筏で皮を渡り、瀬を遡って採石。(『文房四宝、東京末草出版社』)

三原村土佐硯

経緯: 中津岩雄氏-新谷健吉氏-大原勝氏-新谷定明氏

三原村土佐端渓。昭和38年5月、中津岩雄氏が原石を発見。昭和41年には三原村下切の渓谷で原石を発見。大阪心斎橋の花田筆墨店や愛知県の硯専門店鳳山に鑑定してもらい稀有の一品であることを確認。三原村の大原勝氏、新谷健吉氏と事業化を考える。大原氏自宅裏に作業場。(『四国新聞 昭和45年7月17日』)
「書道高知」の岡崎宏陽氏も高く評価。(『高知新聞(?)昭和43年3月』)
昭和41年、書家であり村助役の新谷健吉氏が源谷地区で原石を発見。大原勝氏と共に製硯を開始。その後、新谷氏が体調を崩し、数年を経ずしてすたれてしまう。(『墨 産地ルポ』)
昭和41年 新谷健吉氏が硯石を発見し硯作りを行っていたという経緯があった
昭和42年(新谷健吉氏、大原勝氏の頃)には赤間硯の硯匠が訪れ、原石としては優秀、埋蔵量が十分なら企業化が可能なので送ってほしいとの依頼もあった。しかし、二次加工して付加価値を付け村の発展にも役立てたいと新谷氏は考えた。一生使える品であり、需要には限界がある。企業として採算が取れるかには疑問がある。埋蔵量は十分とみているものの科学的調査は行っていない。東村長は、業界から一貨車文の原石を送ってほしい、書家の間でも相当好評であると聞いているが企業化への判断はしかねている。三十センチ四方で一万円ほど。(『高知新聞(?)昭和43年3月』)
昭和54年4月 当時38歳の村議会議員新谷定明氏が呼び掛け。企業誘致の難しさを知り、地元の硯に目を向けることにした。
昭和57年度 県が一町村一特産品事業(市町村特産品育成事業)を開始
昭和57年4、5月 村内放送にて加入者を募り、15人で三原硯石加工生産組合を発足。組合員は四十代から五十代が大半。
昭和57年 山口県楠町の赤間硯の視察
昭和58年1月に(再度?)指導依頼。同月に名倉氏が三原村へ。
昭和58年8月29日から9月1日 東正之村長。組合員と山梨県南巨摩郡鰍沢町の甲州雨畑硯加工業組合を訪問。先進地も中国産の安価な硯に押され気味。
昭和58年10月4日-6日 名倉氏が三原村を再訪。
昭和58年 地域改善対策事業として柚ノ木に大型作業所を整備
昭和59年5月 鉄骨平屋建てを二棟建設(10日落成式)。県の地場産業振興事業により本格的な建物を新築。機材も導入
昭和59年5月 20代台を含む七名が新加入
昭和59年 秋からは高知の専門店とも取引開始
昭和59年 竜渓硯の視察
昭和59年6月11日 愛知県に名倉氏を訪ねる。
昭和60年10月16日-19日 雄勝硯の視察
昭和61年2月13日-14日 山口県楠町 下井百合昭氏を訪れ研修
昭和61年2月(?) 名倉氏3度目の訪問。この時の組合員は二十二名。
昭和62年3月10日-11 名倉氏、三原村を再訪
昭和61年8月12日から14日 高新画廊(高知文林堂後援)森本龍石書作展 
昭和62年頃 22名在籍。兼業が多数ではあるが、専業にするものもあり、見通しが良い。月に3度ほど共同で原石を採取。生産量は月に300面を越える。生産額も1000万円台に。中国からの安価な硯が多く入ってきているため、高級品製造と販売網の整備が必要。(『墨 産地ルポ』)
昭和62年10月1日から10月6日 高知大丸 むらおこし物産展
昭和63年7月26日 一時は活気を呈したんですが最近はちょっと低迷
昭和63年8月21日 宿毛営林署。親子ふれあい硯石製作教室
昭和63年9月16日 月4回の割で採石している。
昭和63年9月 組合6年目。機械掘りだと原石にひびが入るため手作業。利用可能なの物は二割以下。
昭和63年12月15-16日 名倉氏三原村を訪問。
平成元年4月 硯加工場見学ツアーを企画し可能性を探っている(『高知新聞 平成元年4月12日』)
平成元年5月19日-21日 第6回森林の市(都立代々木公園)
平成元年8月20日 宿毛営林署。親子ふれあい硯石製作教室。参加料1,000円。定員20組
平成元年10月5日 京都賛交社。書家、画家、40名近くがツアーで訪れる。小峰伸夫氏理事長(水明書道会)、材質は国内でも最高の部類(『高知新聞 平成元年10月5日』)
平成2年5月18日-20日 第7回森林の市(代々木公園)
平成2年8月5日 宿毛営林署 親子ふれあい硯製作教室
平成3年1月 全国の文具店にアンケート。通信販売の商品。デパートでの販売。中国産の安い硯が大量に入ってくる。技術を高めることで対抗できる。悩みの種は後継者問題。二十人のうち四十代以下は七人。硯博物館、観光とのタイアップ、製作体験などの案。
平成3年 1500円から70000円、年間3000万円程度の売上。安芸市立書道博物館、いの町の和紙とのタイアップも計画(『林材新聞 平成3年4月17日』)
平成3年8月20日 宿毛営林署と親子ふれあい硯製作教室を開催。20人が参加。
平成4年8月2日 宿毛営林署。親子ふれあい硯石製作教室。参加料1,000円。組合員には1個2000円
平成5年5月15日-16日 第10回森林の市(代々木公園)
平成6年8月7日 宿毛営林署 親子ふれあい硯石製作教室
平成9年2月27日―3月3日 全国伝統的工芸品まつり(東京)
平成10年9月 ピーク時には24、5名が在籍。収集家以外に買い替えが少ないことや専門店、文具店に中国産が出回るようになり低迷。組合で実際に加工にあたるのは8名。年齢は49歳から70代。後継者の育成が課題。ほとんどが兼業。若手がいないと張りがない。硯一本では生計を立てにくく、それが後継者が参入しない原因。
平成14年 県は独自に創設した伝統的特産品に土佐硯を追加指定。(『高知新聞 3月26日)
平成18年 高知県産業振興センターの質問への回答。職人数5名。売上が伸びず後継者がいないことが課題。

三原村土佐硯の特徴

三原石は蒼龍石よりも黒味が濃く、文様もなく一色。雅趣に乏しく落墨が悪いのが欠点(『和硯と和墨』)
三原石は石紋がまったく認められない。硬度が高い。土佐端渓と名乗るが、歙州硯に近い。欠点としては落墨の悪さ。(~産石地の研究 石川二男。) 蒼龍石を訪ねて誤っていきつくのが三原石(大原勝氏宅)。両者は全く異なる。(~産石地の研究 石川二男。)
石質が硬いため膠量の多い唐墨に適している。金属粒のない石面のものは発墨は良好。(『和硯石の展望』 岡田光穂(一二三) 昭和63年4月2日発行)

硯の記録

『毛吹草』 松江重頼

諸国産物の土佐の項。「硯石、三月三日、塩干に海底より取也。時刻に西寺の僧経を読誦する也」。
室戸市羽根崎あたりで硯石を採取したと伝えられる。毎年3月3日は大干潟になるのが習わしで、この日に採取。西寺(金剛頂寺)の僧が大勢繰り出し海辺に立ち経を読み、経の終わらないうちに沖へ走り出て干潟の砂の中の硯石を拾い取ってきたそうで、経の終わるころには干が満ちてくる寸法だった。羽根村の伊芝山(紫、青)、羽崎(黒)、室戸岬町坂本(紫)。坂本石(安芸郡東寺坂本村)、行道石(安芸郡西寺行道坂)、伊芝石(安芸郡羽根崎村伊芝山)、羽崎石(安芸郡羽根崎村中羽崎)、由良谷石(香美郡北村由良谷)。
「土佐ノ海に硯石採る」という春の季語。硯が浜、硯ケ浦の別名。

弘法大師の硯が浜の伝記

空海が西寺を創建の下り、海岸の石と石を磨き合わせて硯を作り、日記を書いたのがはじめと伝えられる。土佐青石、土佐黒石、西寺石、島石、衣滴石などと呼ばれ天下の名硯としてもてはやされたと言う。山内家も参勤交代の折りに持参して配ったとも。

『大乗院雑事記』 (宮内庁保管)文明2年(1470年8月30日付)

「土佐一条家よりキラカラ作り(意味不明)のすずり一面を送っていただき恐縮」。高知県の最古の硯の記録。一条教房が石硯を尋尊大僧正(一条公の実弟)に送ったという内容。(『硯の話 東洋図書出版 昭和58年 大森丁斉』)
応仁2年12月16日付、「大職冠の絵を描く画料として幡多から百びき送ってきた」(送金の話)、応仁3年「新三位顕郷の十一歳の子息が幡多へ行く」「伊勢神宮へ行く人が中村御所の使者として寺に来た」などの記述

『南路詩』

元禄時代(1680-1709)高知美濃屋が大阪商人を通じて全国販売という記述。土佐の硯は古い歴史を持っている。(『文房四宝、東京末草出版社』)

高知の石

幡多の石

窪津、中浜、益野、中村市名鹿、中村市奥山路、香山寺など(『四国新聞 昭和45年7月18日』)
土佐清水市三崎、宿毛市小筑紫、宿毛市石原、宿毛市黒川
土田康雄氏。幡多地域の21か所を調査し、ユニークな硯を作成
出合石、土佐清水市宗呂川の下流、下川口で産出。磨墨に差し支える白色線状斑が見られる。

室戸の石

土佐青石、土佐黒石、西寺石、島石、衣滴石などと呼ばれる。空海が海岸の石と石をすり合わせて作ったという。三月三日大干潮の時に拾ったという故事がある。