土佐硯-introduction  





墨について



まず最初にの話から始めなければなりません。

なぜならば、墨を理解したうえで、その墨を生かすための硯を選択するのが自然の順序であると考えるからです。ここでは実際的な使用における事柄のみに留めますが、墨についての理解を深めたていただいた後に、その墨を生かす道具である硯を検討していただければ幸いです。

墨の原材料は香料、そして(硬度が墨作りに大きく関わる)の4種類あり、これらはさらに幾種類かの原料に分類されます。ここでは墨の種類としてふたつに大別される油煙墨松煙墨についてご紹介します。

菜種油などから採取された煤を用いるものを油煙墨、肥松などを直に燃やして得る煤からなるものを松煙墨と呼びます。現在は材料の不足により一般に流通しているもののほとんどは油煙墨となっています。
油煙墨は灯芯の大小により生成される煤のサイズが異なり、粒揃いのよい煤を得ることができます。希少な松煙墨には大小さまざまなサイズの粒子が含まれるため、多彩な滲みの変化を示します。

とはものが燃焼した際に発生する煙に含まれる炭素の粉末のことです。生成条件により、若干の酸素や水素、窒素、リンなどを含む場合もあります。墨に使われる煤の粒子の大きさはおよそ20~400nm程度と極めて小さく(ウィルスのサイズと比較されることが多い)、時間と手間を掛けて採取されます。障子紙の表面や灯芯の上に伏せられた上皿の表面をうっすらと覆う煤はごくわずかな量で、それらは丁寧にかき集められます。長い歴史のもとに確立され、職人の手によって作られる煤は非常に貴重なものです。
一般的に煤の粒子が小さいほど採集に繊細さを要するため高級品とされています。細かい粒子が分散した磨墨液は筆の墨持ちがよく、のびやかな線を表現することができるという特徴があります。一方で粒子が大きい場合には黒味が強く、また淡墨では青味がかった色合いを見せます。

は主に牛の皮(真皮)から煮沸抽出されるタンパク質のことです。和墨の場合は墨10に対して膠6、唐墨の場合は墨10に対して膠10の割合で混合され、両者の膠の粘度(分子量)も異なります。一般的な比較では和墨は柔らかく、黒味が強く、滲みにくいとされています。膠は墨を固形化させ磨墨液に粘度を与えるだけではなく、紙面上の墨の表情を変化させるという役割も持ち、現代でも膠以上に墨作りに適した材料はないとされています。
また、膠の経年変化(加水分解による質的変化)により粘度が下がり、煤の凝集が起こるなど墨の状態は変化し、それに伴い墨色や書き味もまた異なっていきます(決して劣化するということではありません)。詳細は省きますが、墨とはこのように繊細なものであるため保存には注意が必要であることを気に留めておいていただきたいと思います。

さて、実際の使用に関してですが、大雑把にまとめますと、連綿線でのびやかにつながる小筆を用いる「かな」には細かく揃った粒子の磨墨液中筆以上の「漢字」には粒子径が細かすぎない強い黒味を発する磨墨液を用いるのがよいと言われます。作品によってはこの通則にはあてはならない場合もありますので、一概には言い切れないとしても、ひとつの型としてご理解いただけるとよいかと思います。

続いて硯の使用に関してですが、まずは墨の磨り方を確認していただきたいと思います。少量の水でしっかりと揉みほぐすように優しい力で磨墨することが非常に大切なことです。特に細かい煤を使った高級な墨ほどこの点を守っていただきたいと思います。水中に分散させればよいのではなく、それぞれの粒子を硯の鋒鋩と擦り合わせ、粒子をしっかりと分離させ水となじませることが墨を生かすために必要不可欠な過程となります。また軟水のほうが煤の粒子と馴染みやすいという特徴があり、水選びにも注意されるとよいと思います。

上記のように磨墨液の状態を整えるためには細かく強く、緻密な鋒鋩をもつ硯が期待されます。ここには原材料の石質が大きく関わるため、端渓、 歙州といった名の通ったものを多くの方が求めます。ただ、墨堂の整え方によりその効果が発揮されるわけですので、原材料だけに依るものでもありません。磨墨液を望みの状態に近づけるためには硯の仕上げ、調整も重要になります。墨選びに合わせてご自身の硯をご自身の手で調整するなどにも取り組まれるとよいと思います。






硯石について



硯となる石は特別な性質を持っています。
押し固められ乾燥した墨の粒子を水中に分散させる(「墨を下ろす」と表現されます)ためには、固く微細な凹凸面で磨り下ろさねばなりません。
その山にあたる構造は鋒鋩と呼ばれ、その主成分は石英の粒子です。この石英の粒が細かく強く、緻密に分布していることが硯石としての好条件と言われています。
硯の墨堂(墨を磨る面)を撫でるとすべすべとして抵抗を感じることはありません。しかしながら墨にとっては十分に粗く、接面にある墨の粒子は次々に削り落とされ、粒子の塊が分離されていきます。
よくある例え話に、黒板とチョークの関係があります。黒板も滑らかではありますが、チョークを削り取るだけの粗さを持っています。アスファルトやガラスの上にチョークを走らせることを想像してみると、チョークで文字を書くにはやはり黒板の粗さが最適だということが分かると思います。


以下に工業技術センターで調査した結果をまとめました。

元素記号 元素名 原子数濃度(%)
O 酸素 58
Si ケイ素 21
Al アルミニウム 12
Fe 4
化学式 成分名 組成率(%) モース硬度
SiO2 二酸化ケイ素 65 7
Al2O3 アルミナ 18 9
Fe2O3 赤鉄鉱 8 6.3

墨の粒子(の集合体)は素材や燃焼、採取方法により異なりますが、およそ20~400nmの範囲に分布しています。
一方の三原石の石英の粒子径の中央値は約2.7μmで分布の範囲は1.5~30μmとなっています。別の表面粗さ計の測定結果からは、ピーク間の距離は5~20μm、谷から山までの高さは0.5~1.5μm程度でした。
比較対象を並べていないため、これをもって三原石の硯としての性質を語ることはできません。いかにして墨を磨るための最良の状態を作れるかについて、今後も調査、研究を行っていこうと考えています。 大雑把な例として、墨の粒子(の集合体)を1の大きさとした場合、鋒鋩の高さは20、鋒鋩間の距離は200のような関係になります。写真も併せて考えると鋒鋩というのは鋭く屹立した山ではなく、山と谷が規則的に繰り返されているわけでもありません。単純なスケールを把握するための数字に表したということをご理解ください。






土佐硯について



昭和41年、書家であった新谷健吉氏により原石が再発見され、関心を抱いた数名によって硯作りが始められました。書に携わる方々にその硯を贈り届けたところ非常に喜ばれ、その評判はまたたく間に広まっていきました。
その後、県や村、森林管理局(旧営林署)の助力を得て、作業所の建設、機器の導入が行われ、昭和57年に現在の三原硯石加工生産組合が設立されました。
国内各地の硯産地での研修や著名な作硯師による技術指導を受けるなどして、日々研鑽に励んできた結果、「土佐硯」の名は広く全国に知られるようになりました。優れた石質に加え、ひとつひとつ丁寧に作る手仕事に高い評価を得ています。
重厚な硯、軽妙な硯、創意と工夫を織り交ぜた表情豊かな多様な硯を現在も作り続けています。

石質が比較的安定している三原石であっても、石はそれぞれに異なる個性を持っています。その特徴を的確に見極め、石が具えた性質を引き出すことが、硯職人の仕事となります。
石はそのままで十分に美しいものですが、人が手を掛け、役割と働きを与えることにより、一層の美しさが現れ出ます。 職人は石と対話するようにひと彫りひと彫り彫り進め、秘められたその輝きを削り出していきます。そうして出来上がった硯は、単なる「もの」ではない、特別な趣きを持つ存在となります。
石の生命がそのまま宿った硯。人と共鳴し合う硯。そのような硯作りを目指して、日々真摯に石と向き合っています

三原石は高知県の西端、三原村源谷の山深い渓谷にその抗脈を有します。
六千万年以上前という現在の日本列島が形成されるはるか以前に海底で圧し固められた堆積物が、その後の地殻変動により大陸側に押し付けられるように隆起し、現在の地表面に露出したと考えられています。
三原石は黒色粘板岩に分類され、石英を主成分として、赤鉄鉱、アルミナ、長石、雲母などの鉱物を含んでいます。硬度の高い石英が形成する微小な突起構造は「鋒鋩(ほうぼう)」と呼ばれ、墨の下り具合の良し悪しを決定します。 三原石の特色は、この鋒鋩が均一かつ緻密に分布している点にあります。硯用の石としては非常に恵まれた性質を有しており、磨墨が速く、溌墨の優れた墨液を作りだすための最適な素材と言えます。

全国の伝統産業の現場と同様、土佐硯も需要の低迷、職人の高齢化、後継者の不足などにより、厳しい状況に立たされています。 日常生活で目にする場面は少なくなり、硯は忘れ置かれた存在となりつつあります。
しかしながら、近年では手書きのよさが見直され、書道人気が再興していると伝え聞きます。精神を修め養う書道文化がさらに多くの人々に届くよう、その一端としての役割を果たしていく心構えでおります。
文化や伝統の担い手であることを自覚し、今後も努力を重ねてまいります。